
時代の概観と今後の調査計画について
駿府藩は徳川忠長の自害と廃藩により、藩の正史や藩士系譜集が編纂されませんでした。そのため、尾張藩の『士林泝徊』や会津藩の『会津藩諸士系譜』のような体系的な史料は現存していません。本展示室では、その史料上の空白を前提として、前後の一次史料や関係史料を照合しながら、石黒八右衛門範良が駿府藩士から会津藩士へ至る過程を検証します。


「石黒八右衛門範良は、寛永十四年に会津藩召出しとなる前に、駿河大納言・徳川忠長に御書院番地して仕え、忠長自害により浪人」とあります。父は「筑前守某」と記述しています。


上段の尾張石黒家記述から、房勝の父と比定可能な善十郎重玄部分を下段に抜き出しました。重玄の子としては善十郎重時と善九郎重良を確認できます。二人は家督を相続して尾張藩士として記録されているため、範良とは別人です。
前述の理由で駿府藩には藩の正史や藩士系譜集がないため、このような史料上の空白が必然というしかないのです。

「幕臣となって駿府に移った重玄の子のうち、重直・重弘の事蹟は士林泝徊から見ることができます。
重要なことは『石黒氏の歴史の研究』「第五章・割石黒氏の由来と歴史」の157ページにある「重玄の子孫に幕下御附属衆の家柄として、新知行の別家の御取立を受けたものもある」という記載(↲)です。
「幕下御附属衆」は、尾張徳川家の家臣団のうち、将軍直属(幕臣)と尾張藩の藩士の中間的な地位に属した家柄を指します。徳川宗家と密接な関係にあった御三家筆頭の尾張徳川家には、将軍直属の幕臣の格式と幕臣的性格を持ちながら、尾張徳川家に仕える高位藩士層「御附属衆」が存在しました。
重玄の嫡男重時は家督を継ぎ、次男重良は兄同列で「尾張藩に仕えた」と士林泝徊に記録があるので「新知行の別家の御取立」には該当しません。「新知行の別家の御取立を受けた」のは、重時・重良以外の重玄の子孫であり、系譜に赤波線で記した三男がいるとすれば新たに知行を与えられ、分家(別家)を立てて御附属衆の地位に取り立てられたことを意味します。
尾張藩士林泝徊に「八右衛門範良」の名を見ることはありません。一般に、藩公式の系譜集は、編纂時の藩士の記録であるため、その時点で藩籍を離れた者は記載されないからです。
しかも、駿河藩は藩士の公式記録を編纂する前に廃藩となりました。
駿河藩士としての、八右衛門範良を藩の記録に見ることはできません。
静岡県駿河藩時代の調査計画
石黒八右衛門家450年の歴史で、駿河藩時代は一番客観性が不足する時代と考えています。一次史料がなく、関連史料に地名が登場する場所を実地で調査したことがないからです。尾張地区調査に続いて新幹線で静岡まで足を伸ばし、静岡市歴史博物館等での資料調査、現地調査を実施する予定です。仮に断片的な記録が存在していれば、そこから発して、歴史の道筋に光を当てていきたいと考えています。再開発がすすむ駿府城址を訪問し、久能山東照宮を参拝して、尾張から会津に続く「石黒家歴史」の断片を探ってきたいと計画しています。
今回の調査には、今までにない難しさが予想されます。徳川忠長が自害したことにより、駿府藩が廃藩となったため、史料の保管状態が不明なことです。
今回の調査で最も重要な課題は、駿府藩廃藩に伴う史料の散逸状況を確認することです。断片的な史料であっても所在を明らかにできれば、範良の足跡を復元する新たな手掛かりになる可能性があります。
本展示室は現在も調査を継続しています。駿府地域の現地調査や関係史料を確認して新たな知見が得られた際に、内容を随時更新いたします。
