尾張藩時代ー新

時尾張藩時代の概観とこれからの調査について

 「尾張藩士林泝徊」を読解することで、越中を拠点としていた石黒一族が、尾張徳川家に仕え、駿府藩徳川家を経て、会津藩士となるまでの人と事蹟の道筋に光が見えてきました。
 会津藩諸士系譜初代 八右衛門範良の項で、範良は「筑前守某嫡男。 筑前守某者越中之国之内一所之地ヲ領し」という記述がありました。会津藩の公式系譜のこの一文を手がかりに、越中から会津につながる道筋を求めて、会津若松ー富山-加賀を調査してきました。「尾張藩士林泝徊」は閲覧できないでいたため、名古屋の蓬左文庫等の図書館、資料館での史料調査と現地調査を予定していました。
 ところが、最近になって国立国会図書館デジタルコレクションに収録されたため、尾張藩時代の石黒家の事跡を閲覧することが可能になりました。一次史料「士林泝徊」の読み取りによって、加賀藩諸士系譜「神君御馴染之者故尾張江」と記された「善九郎房勝」が尾張に移って名を替えた「善九郎重成」と同一人物であること、房勝(=重成)と範良の生誕年から房勝・重成(祖父)、範良(孫)と考えて、重成の三男重玄を範良の父に比定することが妥当という考えにいたりました。
 他の地域と違い、尾張藩・名古屋では、史料に記された場所の現地調査を実施できていない状況です。
 この項では、尾張藩公式系譜集「士林泝徊」の内容を検討するとともに、愛知県・名古屋市、小牧市等の調査計画をご紹介します。

重成 善九郎
 母、前田氏女也。前田利家一族也。重成八世祖大炊助重行越中ヲ去り、尾州二来て、如意味鏡二郷ヲ領す。爾後子孫昆弟相分、各其ノ家ヲ立て、或いハ続き、或いハ断つ。  
重成、累世如意郷二居り、往昔梵刹ヲ創り、如意山瑞応寺と号す。
侑福之地の為、後年梵刹、火災二罹る。重成、再に其寺ヲ興し、且つ附寺後山林及び若干の斎田ヲ寄す。今二至り除税之地と為す。
天正十二年豊臣秀吉織田信雄二与し。隙有。秀吉兵ヲ発し、尾州ヲ浸す
東照大神君、信雄ヲ援けて、尾州二赴く。四月九日、長湫ノ戦(ながくてのたたかい)、重成、勝川二迎え奉り、                                      
飧飯
(そんぱん)ヲ献ズ。且つ郷民を使い、馬茘ヲ束ね、間道に之ヲ運送せり。
神君、其の志ヲ大い二賞し、先鋒二躬(みずから)ヲ列し、其の地に直ちに至る
神君、渡辺半十郎正綱をして旗立の地見立て、内藤志郎左衛門正成建議して未だ決せず。
印君曰く、重成累世尾張、世々その国に住む者、俗に曰く先方の士。地形を知る者也。
彼ヲ携えて其の所ヲ見。是に於いて、相共巡見、帰り之ヲ言う。
御旗ヲ藤山二立て、大捷之功有り。
神君闔国ヲ統一。

 薩摩守忠吉君、尾州ヲ領し、之に属し奉るヲ命じ、如意の郷に住み、采地(知行地)元の如し。其の後、敬公尾州二封じ、重成亦命ヲ蒙り、敬公二属し奉る
 篠木柏井両庄及び近郊ノ御代官為、慶長十六年正月、恒例に随い駿府に赴く。歳首ヲ賀して府下に留まり、租税の事ヲ会所にセンコトヲ計り請う。此時、義直公、年猶(いまなお)幼弱、国政事務悉く神君出ル故也。
 大神君曰く重成誠実素ヨリ之ヲ知る。何及ンヤ之乎(なんぞこれを)御手乃自筆にて租税皆済ノ証書之に賜う。且つ御頭巾之に賜う。
 曰く。老人春寒に堪えるべからず。早く帰りて休むべし。即ち駿府を出でて尾州に帰る。其の証書に曰く。
  尾州酉皆済む事
右分小物成る迄相済也、仍て件の如し(よってくだんのごとし)。
慶長十六年正月吉、石黒善九郎
元和二年(1616)十二月七日卒、七十八歳。法名功岳同勲大禅定門

【補説】房勝父光教は、一向一揆勢力・本願寺門徒との均衡に失敗した後に、房勝「飛騨の山を越えて南に、尾張に旅立ちせよ」と命じ、室町時代初期の越中騒乱から逃亡して尾張如意村に定住していた遠縁にあたる尾張石黒高重に預けます。房勝はその猶子となり、重成と名を変えてその地に定住します。重成が、隠棲していた如意を徳川家康が通過した際に、46歳の重成の人生が大きく変わります。  
 家康と出会った日天正12年(1584)4月9日)は徳川家康が羽柴秀吉方の別動隊を奇襲し、池田恒興や森長可らの武将を討ち取った長久手の戦いにおける徳川軍の歴史的な大勝利まさにその日でした。地形を知る重成が先鋒となって案内した御旗山で秀吉側の三河中入りを見通せたことが。家康側の勝因でした。家康が「御旗ヲ藤山二立て、大捷之功有り」と重成を賞した意味がわかります。
 後段は、61歳から78歳まで重成晩年の様子です。家康の九男・徳川義直(敬公)が尾張藩主になると、「敬公二属し奉る」と、尾張藩士になりました。その後、徳川吉通が11才で四代藩主になると、藩主の国政事務を家康が担当しているのを代行することを申し出て、家康から「御手乃自筆の租税皆済ノ証書」と「御頭巾」をいただきました。非常に高い信頼をいただいていたことがわかります。
 戦乱と大地震の越中木舟城を脱出し、尾張に定住した後、偶然と言っていい事情により小牧長久手の戦いで功を上げ、家康から厚く信頼をいただき、晩年尾張藩士。家康隠居所の駿府にも縁が深った房勝・重成は、戦国時代末から江戸時代への石黒家の歴史を力強く切り開いてくれたご先祖でした。 

長久手合戦屏風
(名古屋市 徳川美術館蔵 )
天正12年(1584)4月9日に長久手で行われた徳川家康軍と羽柴秀吉軍(森・池田)の合戦図。画面中央上部には、徳川家康の金扇の馬標が見えています。天正12年(1584)4月9日に長久手で行われた徳川家康軍と森・池田軍(羽柴秀吉方)の合戦を描きます。画面中央上部には、山陰から現れた徳川家康の金扇の馬標、左寄りの場所では鉄炮で眉間を撃ち抜かれる森長可、下部には討ち取られる池田恒興・元助父子の姿がみられます。この合戦は、井伊直政が武田家の旧臣を率いて参戦し、具足を赤色に統一した「赤備え」として初めて臨んだ合戦で、本図にもその姿が描かれています。

重玄 善十郎 
 初め重長、後重玄に改む。文禄二年(1593)朝鮮に赴く。功有り。増田右衛門尉長盛に属し、食邑千石を領す。同六月、長盛家士永田忠三郎・深尾孫作、重玄ニ与し、功を争う。長盛、これを聞き、二士の奸曲を怒り、重玄廉直を賞し、永田、深尾の食邑を奪う。
 上甲賀中村中旗両地合わせて305石、重玄に加え賜う。
 同年九月又和州平群郡款冬畑村及び紀州名草郡四郷岩手西庄五百石加え賜う。
慶長五年(1600)関ヶ原の役、長盛重玄に命じ、密事を大谷刑部少輔吉隆に報ず。重玄駆けて関ケ原に赴く、未だ戦わざる一日、吉隆(陣営の)中に至り、之を達す。
吉隆甚だ労之に感ず。
 長盛 謫見の後、黒田長政甲斐守雅に其の名を聴き本知をもって之を招く。是に於て筑前に赴き、千八百石を領す。
 六年丑席田郡に於て増千石を加え。七年功あり、穂波郡に於て増千二百石を加う。重玄自ら謂う、方今天下太平功を立つべき者なし、豈に徒に陪臣となり一生を終わらんや。
数度暇を乞いたるも長政許さず、筑州を出て尾州に奔る。父重成の家に匿れる。長政大いに探すも得ず。
 神君尾州を過ぐ、重成重玄を携え鳴海に出で、神君に謁し、且つ尾州路重玄出来奔の由述ぶ。神君その志を大とし重玄に命じて曰く、宜しく駿府に来たれ、長政の怒りを解かん。
而して後幕下に属す。因って駿府に往く。 一日 神君成瀬正成をして事を長政に達せしむ。長政曰く、臣これを憎むにあらず。之を捜す所以は彼の人と為りを惜しむ也。
幕下に奉仕得ば、臣亦感悦に堪えず。
乃、重玄を呼び、巵酒をあげ、佩する所の信国の佩刀を以って、之を授け曰く、今より以後汝と同じ是幕下の臣なり。手自ら茶を点じ、正成重玄相共に之を啜る。情和話睦云云。十七年美濃国に於て采地五百石賜り、幕下に奉仕す。朱章を賜り、且つ四人の老職の目録は左の如し。
知行目録 

知行目録 
一 二百拾五石七斗三升四合濃州池田郡山年貢共 山ほら村
一 百三拾弐石七斗六升八合 同国安八郡野年貢共 見る村之内
一 百五拾弐石九斗壱升八合  二木村之内  合 五百石
 右当子物成より可有御務候所、御朱印之儀は重而申請候而可進候以上。
壬子十月十六日  安藤帯刀   
         成瀬隼人
         大久保石見
         本多上野介
石黒善十郎殿 参 美濃国池田郡山洞村山年貢共二百拾五石七斗三升余、 
安八郡海末村野年貢共百三拾弐石七斗六升余、二木村之内百五拾弐石九斗壱升余、
  合 五百石之事
右宛行訖、全可領知者成
慶長十七年十月廿八日 御朱印
         石黒善十郎どのへ」

【補説】
 善十郎重玄は若い頃は父重成と行動を共にせず、増田長盛に従って文禄の役で武功を上げ、上甲や紀州に所領をいただきました。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いでは西軍に属し、密事を大谷刑部に伝える役割を果たしたようです。その後、黒田長政に招かれ、筑前で千八百石さらに千石・千二百石を加増され、300石の下院となっていますが、方今天下太平功を立つべき者なし、豈に徒に陪臣となり一生を終わらんや」と、黒田長政のもとを去り、尾州に逃げて、父重成の家に隠れます。
 慶長7年(1602)に、家康が、尾張を通過する機会に、父重成に連れられて、家康に拝謁します。重成は子・重玄が尾州路を出奔した理由などを伝えますが、「神君その志を大とし」ということで、重玄に「駿府」に来ることを命じます。
 そのようにして幕臣となり、駿府に往きます。家康と重成の関係が良好であったためか、子の重玄も、大切に扱われたようです。家康は側近の成瀬正成(犬山城主)を仲介者として、重玄と黒田長政
の面談の場を設けました。長政は「今より以後二人は同じ幕臣である。」と茶と酒を共に味わい情和話睦むことができました。
 慶長十七年(1608 )の御朱印入り知行目録が残されています。

愛知県及び中部地区の調査計画
 札幌丘珠空港から県営名古屋空港(小牧空港)に直行便で行き、小牧市を拠点に下記を調査します。

名古屋市北区如意地区
春日井市松新町勝川駅付近
春日井市二子町味美二子山古墳
小牧長久手古戦場
その後、名古屋に移動して名古屋市の蓬左文庫徳川美術館で士林泝徊と関係資料を調査します。

※ 一連の歴史事象の状況は、現地を調査しないと具体的に把握することは難しいように思います。
  本展示室は現在も調査を継続しています。上記計画を実行して、尾張地域、さらに駿府地域の現地調査や関係史料を確認して新たな知見が得られた際に、内容を随時更新いたします。