六代 行蔵良言(虎三郎)

良言の人物概要

  良言=虎三郎は養母の失踪事件という家族が起こした不祥事によって家督と役職を失いながらも、諸国遍歴の末に養母を探し出して帰藩、その後の誠実な奉公によって石黒家の名誉回復に努めた人物です。

 自家に不利益な出来事を漏らす事なく記述している事で「会津藩諸士系譜」は、信憑性の高い資料とされていますが、8代目・良言の系譜には「家族が惹起した会津藩石黒家にとってもっとも不名誉な出来事というしかない不祥事とその後の名誉回復に努めた良言の姿が、生々しく描かれています。
 

六代 養子 行蔵良言(よしとき)  初 虎三郎
          延享三寅年六月十九日誕生
  実 栗村治兵衛勝許三男
  妻 養父十右衛門孝和女
     明和八卯年正月十三日六歳ニ而病死 
     法名 躰了院妙現信女葬所同上
    山本平左衛門良金女 
一 明和四亥年六月亡父御扶持方之内
  三人分被減十弐扶人持被下置外様組付被
  召出原田又助組江入御城御番相勤候事
一 同五子年十月武芸精出相励奇
  特ニ被思召之旨被 仰出候事
一 安永二巳年二月頭原田又助病死ニ付
  跡御役生駒内蔵助組ニ相成候事
一 同八亥年十月養母檻を破罷出候
  ニ付一類とも申合手訳ケ仕相尋候ヘ共
  行衛(ゆくえ)相知不
申候由先達而之次第も  
  在之其上乱心之形ニ付厳敷檻江入
  置候様被 仰聞置候処此度右躰之
  義重々勿諸之至ニ候乍然此末相及候
  丈ヶ長ク相尋申度候間御扶持方差上ケ
  永代之御暇願出候
儀ニ候旨被任其意
  取押候ハ々者申出候様被 仰出候
   但諸国遍暦相尋候へ共行衛相知
   不申候ニ付御国江立戻り罷在候且最
   初出奔致罷帰候節厳檻江入置候様

   被 仰付候年月不詳ニ候事
一 天明八申年十二月御情扶持三人分被下置候事
一 寛政元酉年正月行蔵と改名仕度旨被任願候事
一 同三亥年十二月組外之士被 仰付候事
一 同四子年正月 御目見被 仰付候事
一 同年三月追鳥狩之節罷出候但此後当務ニ而四度罷出内壱度獲(えもの)拝領仕候事
一 同月当追鳥狩手始之処隊々宜相揃候様御覧被成候段御沙汰二候旨相組一同御称美被成下候此後毎度御称美被成下候事
一 同五丑年三月兼而蚕養方手馴候ニ付右取計之筋河原勝太郎一同取計候様被 仰付候但右ニ付他邦応対郷村出役等も致 費も相懸り候ニ付為費補金弐両弐分ツ々年々被下置候事
一 同七寅年六月伊達郡川俣御領尓蚕種子調儀御用ニ付)為対談罷越候様被 仰付相勤候但此後右勤ニ付度々出役仕候事
一 同八辰年三月御哀憐を以五人扶持被下都合八人扶持ニ被成下新番組被仰付候事
一 同十一年未年五月蚕養並桑苗木植立方致出精候ニ付為褒美綿壱把被下置候事
一 享和元酉年十月御代官見習兼務被仰付候事
一 同二戌年八月蚕養方並桑植立方出精致候ニ付為御褒美銀五両被下置候事
一 同年十二月御代官見習勤不得手ニ付御免被成候事
一 文化五辰年閏六月山本平左衛門弟(永之助悴)八右衛門養子ニ仕度旨被任願候事
一 同年十二月外様組付被 仰付志津摩組江入
御城御番相勤候事
一 同九申年八月三ツ俣楮是迄取計居候処此度右楮於町役所増長方取計候ニ付而ハ植立之義町奉行役差配取計候様被 仰付候事
一 同十酉年九月追鳥狩之節罷出候 但此後三度罷出候内壱度獲拝領仕弐度ハ悴八右衛門陣代ニ而罷出候事
一 同年閏十一月当追鳥狩之節列伍足並等宜相揃運用無滞段兼而合隊稽古をも致出精候義と被思召之旨相組一同御称美被成下候
  但此後毎度御称美被成下候事
一 同十四丑年三月先年植立置候三ツ俣楮唐帋計方江差出繁茂候ニ付為御褒美綿壱把被下置候事
一 同年十月操練出精宜相励候ニ付為
  御褒美新身鎗壱穂被下置候事

一 文政元寅年十二月三ノ丸教場足
  並稽古之儀三ケ年上等之位ニ致 
  且等位相進候二付御酒被下置候事

一 同四巳年十二月諸向 御人滅被 
  仰付候ニ付蚕養方御免被成候事
女    養子大吉  妻
     養子行蔵良言 妻

事件 養母檻を破り出、親族一同で尋ねるも行衛(ゆくえ)知れず

赤字を見ただけで、ただならぬ事件の雰囲気が感じられます。しかし、家族を檻に入れなければならない事情は、系譜からは分かりません。

 「石黒虎三郎は、延享三年(1746)栗村治兵衛勝許の三男として生まれ、石黒家五代十衛「会津藩家世実紀巻之二百十三」には、この事件の詳細が記録されています。該当ページをご覧いただいた後で、系譜と家世実紀から事件の概要を整理します。

 【事件の概要】(家世実紀上記要約)
「石黒虎三郎は、延享三年(1746)栗村治兵衛勝許の三男として生まれ、石黒家五代十衛門孝和の娘と明和四年(1767)に結婚して、養子として石黒家に入った。虎三郎の養父孝和が四三歳の明和八年(1771)に最初の妻が病死し、安永元年(1772)に、山田元左衛門忠良の娘を後妻に迎えた。その後、孝和は安永六 年(1777)に四九歳で病死する。事件の当事者「虎三郎の義母」とは、孝和の後妻(山田元左衛門の娘)である。虎三郎は養子に入った際に家督を継ぎ出仕しているので、隠居後に死去した先代孝和の後妻が、孝和死後に事件を起こしたことになる。ここからが安永六年(1777)の事件の概要で虎三郎33歳の出来事である。
「養母が十月三日、「夜風にまぎれて家を出たので、一族の者が申し合わせて尋ね探したが、行方が分からない」と役所に申し出たので、ご家老とも協議して、「一族で相談して広く尋ねるよう」と虎三郎と義母の兄山田元右衛門に申し付けたが、行方知れずのまま。
 虎三郎が「この後広く尋ね探すため、御扶持を返上し、永代の暇を願い出たので、頭生駒内蔵助も、「かねてから養母は姦婦という聞こえがあるので、一族に尋問したところ、 隣家の塗師弥右衛門の家に日夜行っており、その上、虎三郎が当番で留守の時に家財手道具等を残らず荷造りして出奔した」という事で、世間の取沙汰の通り相手があるに相違ないので、この度は重い願いと受け止め、尤と思うが、「御暇は下さずに、隣家の町人弥右衛門と不義の上、申し合わせて出奔した疑いがあるので、一族への諫言を行った上で、義母が弥右衛門の町屋にいたならば、取り締まっていいので、七日遠慮(職務停止)を申し付ける」と申し渡した。
 安永七年(1778)五月十二日の夜中に連れ戻したが、言う事は辻褄が合わず乱心の様子であった。「虎三郎は町屋に住んでいるので、義母の兄元右衛門方に引き取り、厳しく檻に入れておきたい」と申し出があったので、評議の上、先日の出奔の次第は疑いの筋もないので、糺問して罪や不正を厳しく問いただすよう仰せつけた。
 「前後不都合で乱心の体なので、檻に入れて虎三郎方に差し置いたところ、9月17日明け方、囲いを破り出たので、一族で尋ねたがまたも行方知れず」と申し出てきた。
この旨をお口留番所から家並にお触れをし、その後、一族で手分けをして尋ねたが、やはり行方知れず。
 「ここまでに至ったので、永く尋ねたく御扶持を返上し永代の御暇を下されたい」と申し出たので、前回の永代の御暇願の節とは訳も違うので、今回はお咎の意味を含め、その意に任せるという取り扱いになった。「元右衛門の所に立ち返った砌は引き取り、檻に入れたい」との申し出は趣も通っているので、虎三郎には蟄居、虎三郎実兄栗村治兵衛には五日の遠慮を申し付けた。蟄居により役職を免じられた虎三郎は、義母を探す諸国遍歴に出た。
 2年の諸国遍歴により、天明元年(1781)に養母が水戸藩領にいたところを見つけ、内々に引き戻すことができ、虎三郎は会津に帰り蟄居できることとなった。
 そして、天明八申年十二月御情扶持として三人分を下し置かれることとなった。(会津藩家世実紀巻之二百六十四)」

【その後の虎三郎】

 家族が惹起した不祥事によって、虎三郎・行蔵良言は藩に永代之暇願をして諸国遍歴に出ます。解決後、役職を免じられた上で、「御情扶持三人分」をいただき、会津に蟄居することを許されます。
 住まいも当初から大きく離れた外堀の外になりました。

行蔵良言はこの状況にひるむことなく、新たな名に改め、新しく桑苗木植立方のお役目をいただくと、出精致候ニ付為御褒美被下置事。その様子は書き下し文に緑線で示した通りです。
 さらに、文化十四年(1817)には、晩年72歳にして、「操練出精宜相励候ニ付為御褒美新身鎗壱穂被下置候事」と、石黒家の名誉回復に努めました。

どのような時代にも誠実に生きたご先祖に感謝


 長年にわたる歴史を振り返ると、家運が隆盛した時期と傾き衰亡した時期が糾える縄のように訪れます。
 どのような時期にも、ご先祖が、全力を尽くし誠実に生きてこられたことが現在に繋がっていることに深い感銘を覚えます。感謝。