越中木舟城時代
石黒一族は、戦国時代末期・安土桃山時代に「越中木舟城主」として歴史記録に登場します。その場所の位置を確認します。
木舟城跡は、越中国(富山県)西部穀倉地帯の米を小矢部川水運で伏木に運び出す目的で、戦国時代の城としては異例の河川付近の低湿地に位置していました。

先祖旧領之地を訪れ、その風土を肌で感じ貴重な経験

初めて木舟城跡を訪問した平成二十三年(2011)には、石黒善九郎房勝と石黒八右衛門範良との関係が未解明であったため、木舟城跡と福岡歴史民俗資料館を訪問しながらも、「石黒」という武士が城主と伝わる越中の城跡を見てみたいという認識にとどまっておりました。
その後、本稿記載の通り会津藩仕官以前の石黒家の来歴が明らかとなり、木舟城で生まれ、神君・家康公との関りから尾張に行った善九郎房勝と、尾張で生まれ、駿河藩を経て、会津藩士となった八右衛門範良が祖父と孫であったという関係を明らかにできました。
そのことにより、今回の木舟城跡訪問は、私にとって先祖旧領之地を訪れ、その風土を肌で感じるかけがえのない貴重な機会となりました。
「幻の城」から「日本一雄弁な城」に変わった木舟城

木舟城址公園から見た開通後の能越自動車道

今回の訪問で、木舟城が貴重な研究対象として全国的な注目を集めていることがわかり、強く印象に残りました。
上表のように、木舟城の評価は、大きく三つに分かれています。注目したいのは、橙と緑の評価です。約四百年にわたって「幻の城」と言われてきたのは、天正大地震で倒壊・廃城となった後、存在を伝える遺構・遺物が何一つ確認できなかったためです。古文書には上杉謙信と織田信長との対立の中で所領と城の維持を模索した城主一族の記録が生々しく残されたことが、木舟城を「幻の城」として印象付けた一因だったかもしれません。
その印象が一変したのは、能越自動車道の建設工事に伴って発掘が行われた際に、保存状態が良好な金属製品などの遺構・遺物が地中から発見され、本格的な発掘調査が行われたことによります。


木舟城倒壊と遺構発掘の特徴
能越自動車道建設に伴い、平成五年(1993)から七年(1995)にかけて木舟城の西側から北側にかけて周辺300mから500mの地点で発掘調査が実施され、戦国期の木舟城と城下町が現実のものとして姿を見せることになりました。出土した十六世紀の遺物・遺構は、次ページからの写真のように城と城下町の人々の生活を生々しく伝えています。
木舟城を倒壊させた天正大地震は天正十三年(1586)十一月二十七日に発生しました。小矢部川河畔の低湿地の地盤を液状化させ、城の地盤は三丈(約9m)も陥没し遺物を液状化した地中に埋没させたと記録に残ります。寒冷な北陸の十一月末のこと、地盤が凍結することで、金属製の遺物の錆を防ぎ良好な状態で保存されたと考えられます。
広く開馞大滝遺跡、石名田木舟遺跡、木舟北遺跡といった城下町の遺構まで目を向けると、舟運を含めた水陸交通の要衝として存在していた様相が明らかになってきます。
また、地震の痕跡である噴砂や地滑り跡も確認されています。
戦国期の城と城下町の実像に迫る多彩な切込み口を持つ木舟城は、「日本一雄弁な城」として注目を集めています。
(2)発掘された金属遺物
―開馞大滝遺跡、石名田木舟遺跡、木舟北遺跡―
中世木舟城下町では、生活用具・装身具・武具・馬具・信仰用具・職人たちの道具など多彩な金属製品が出土しており、城下町が繁栄していた姿を想像することができます。
木舟城には衛星のように点在する三つの城下町があることが発掘調査で明らかになりました。開馞大滝遺跡では、匙、煙管、鉄瓶などの生活用具が出土しています。石名田木舟遺跡では、笄金物といった飾り金具、お歯黒を入れる皿である鉄漿皿などが出土しています。中世以前は権力者の占有物であった金属の装身具は、庶民の中にも浸透してきたことがわかります。
また、武具や馬具は、石名田木舟遺跡から刀の鍔、小柄、兜と鋲、鎧小札、木舟北遺跡から鉄製の轡が出土しました。
信仰用具は、石名田木舟遺跡から仏飯器や紀年銘のある鰐口などが出土しています。
職人の痕跡は開馞大滝遺跡から鍛冶炉・溶解炉と考えられる焼土痕跡を持つ土坑が確認されました。鋳物師・鍛冶師などの職人が城下町に住み、活動した姿が連想されます。
天正地震によって液状化した地下に凍結保存された遺物と遺構は、雄弁に戦国期の状況を伝えています。現在、発掘は一部にとどまっているところです。今後の発見と研究の進展に大いに期待したいところです。



(3)木舟城主 石黒大炊助光教 左近蔵人成綱 善九郎房勝

発掘によって、木舟城の存在が確認できるようになると、文書の中に記録されていた事件を詳しく知りやいという意識が生まれてきます。次の文書は加賀藩公式記録「諸士系譜」の木舟城主 石黒大炊助光教 左近蔵人成綱 善九郎房勝の項です。
成綱の項に「信長公偽テ誓紙以使者木舟江
成綱、老臣三十騎斗長濱エ着。信長公ヨリ人數大勢相向急ニ囲旅宿
防戦 不叶天正九也六於旅泊自害依之木舟落城」
この後、信長の家臣・佐々成政が木舟城に入り、秀吉の越中攻めに佐々が降伏した後、前田利家の弟・秀継が新城主となりますが、その直後に、天正大地震が発生し、木舟城は倒壊し、前田夫妻は命を落とします。家臣が城主夫妻の遺体を発見するまでに、3日もかかったと伝えられています。この大地震の記録は、隣国の若狭で経験した宣教師ルイス=フロイス『日本史』など多数の記録に残ります。その状況を、噴砂や地滑り跡という証拠によって補完することに、木舟城の遺構発見の意義が大きいと感じます。
地震の翌年、木舟城は廃城となり、前田家は越中西部の拠点を今石動城に移します。
地震に先立って織田信長に討たれた石黒一族は、離散・流浪し、木舟に戻ることはありませんでした。
成綱の弟・善九郎房勝は筆者から遡ること十四代の先祖となります先祖旧領の地の風土を肌で感じることができました。
