
戊辰戦争に敗北し、藩主容保と嗣子喜徳は他藩永預、謹慎。降伏捕虜となった藩士は各地の収容所に送られました。石黒八右衛門家は会津美里町の左下り観音堂付近に護送されました。
しかし、明治二年(1869)容保公の実子容大公が誕生して名跡を許され、容保公は引退。容大公は所領を三万石まで格下げされて青森県の一部(地図参照)に移封されました。藩名は、漢詩の「北斗以南皆帝州」にちなんで斗南と名付けられました。
明治三年(1870)藩士も謹慎を解かれ、藩主に従って斗南に移住することが許されます。





八代
八右衛門範親(のりちか) 文政八申年誕生
妻 まさ 文政八申年(1825)誕生
明治三十三子年 病死。享年76歳
法名 石秀院真譽妙縁善大姉
一、慶応四年戊辰戦争(44歳)参戦
一、明治三年(1870)、会津処分により
秋期海行で斗南藩に移転
一、明治三七年(1904)病死。享年80歳
法名 石照院真譽法順善居士
├廣記(ひろき) 嘉永三戌年(1850)誕生
一、慶応四年(1868)戊辰戦争に参戦
一、長命寺の戦いで戦死。 享年19歳
法名 忠道院義英満善居士
九代
和兌(まさたか) 安政三年(1856)誕生。
会津若松生まれ。
妻やす 文久二年(1862)根津家生
昭和十七年(1942)病死。享年80歳
法名 壽特院光譽妙安善大姉
一.戊辰戦争(15才)。斗南移転(15歳)
一.八戸でマッチ工場を経営。
⇙ 薄木片鉇功機械・特許番号1136号
家族写真は大正5年(1916):61歳時
娘きよが青森県法運寺𥱋田家に嫁ぎ、法運寺石黒家の菩提寺。
大正十年病死。享年66歳
法名 積善院照譽興榮清居士


南部移転人別帳
秋期海行の9行目に「石黒八右衛門」が見える


明治四年(1871)廃藩置県によって斗南県さらに青森県に編入され、斗南藩はわずか二年足らずで消滅しました。石高八分の一の減封であり、やませ吹く不毛な火山灰地あるいは低湿地に暮らす藩士は苦しい生活を強いられました。
石黒家は、八代八衛門範親が46歳の時に、八戸に接する百石(現おいらせ町)に移住し、明治四十年(1907)に、十代虎雄が北海道庁に奉職し北海道に移住するまで居住。和兌の娘きよが法運寺𥱋田家に嫁ぎ、そのご縁は続き、北海道移住後、現在までも法運寺が石黒家菩提寺となっています。
11代康弘は、子どもの頃に祖母やすを通して、会津の事、斗南のことを聞いたそうです。和兌は奥入瀬川の水力で上流から運ばれる木材を加工する機械を発明し、大きな工場を経営したと聞かされました。会津処分で斗南に流された藩士の多くが集団で北海道に移住した中、この地に約40年も暮らした背景に独自の才覚があったのかもしれません。
会津処分によって、父祖の地・会津若松との結びつきが希薄とならざるをえない北海道移住後の石黒家にとって、会津と北海道をつないだ土地に菩提寺があることは大きな意味を持っています。
