加賀白瀬時代

出来事の概要
 写真は石川県羽咋市「白瀬」。右の文書にある「白瀬」を訪問して、高台から海を見通し、市街と畑を写しました。「天正十九」(1591)、石黒善九郎利家にどのようなことがあったかを考えます。
 房勝の父木舟城主大炊助光教は一向一揆勢力との騒乱に苦しみ、「飛騨の山を越えて南に、尾張に旅立ちせよ」と3男房勝に命じ、房勝は尾張如意村に定住していた遠縁にあたる尾張石黒高重に身を寄せて猶子となり、重成と名を変えてその地に定住します。22歳の時でした。その後、天正12年(1584)39歳になった重成に転機が訪れます。徳川家康と出会い、長久手の戦いで徳川軍の歴史的な大勝利に貢献し、家康から「御旗ヲ藤山二立て、大捷之功有り」と賞されたのです。
 さて、右の文書にある「天正十九(1591)」は、それから7年後、重成は46歳です。

 加賀藩諸士系譜に、「善九郎房勝-天正九年(1581)高徳公奉千俵」とありました。
「領知方」は、そのことを裏付ける一次資料です。
 赤線に
・白瀬村・千俵・天正十九・利家印 の文字を見ることができます。

織田信長家臣・赤母衣衆。柴田勝家与力として、北陸平定に功。
天正9年(1581)能登国23万石を拝領。大名に。
天正10年(1582)本能寺の変。賤ケ岳の戦。(越中で上杉に備え参戦せず)
  羽柴秀吉に臣従し、天下平定に尽力。加賀・越中を拝領。
天正12年(1584)小牧長久手の戦いで佐々成政(石黒後の木舟城主)と戦闘。
天正13年(1585)8月、秀吉越中国攻略で佐々成政が降伏。嫡子・利長が越中国の砺波・射水・婦負を加増され、末弟・利秀が木舟城主となり、前田一族で76万5千石に達し、加賀藩百万石の基盤が固まる。天正大地震で木舟城倒壊。
天正18年(1590)の小田原征伐。
天正19年(1591)石黒善九郎に白瀬を知行宛行(ちぎょうあてがい)。
慶長3年(1598)嫡子・利長に家督を譲る。五大老に命じられる。秀吉没。
慶長4年(1599)、病没。享年62

 秀吉に従い、加賀・能登、越中を領し、加賀藩の基盤ができた後に、徳川家康の家臣である石黒善九郎に白瀬を知行としてあてがったことになり、不自然な印象を感じます。同様な事例を紹介します。
 「慶長年中、前田利長加賀能登越中三国を領する時に、利長石黒善九郎重成に言う。越中は汝の本国である。まだ汝の母方の親類である。よろしく我が配下に来たるべし」と。
重成言う。感謝に堪えない。しかし今、大神君家康公の懇情深く慈愛ある命令あり、尾張のことはここを去ることはできません。しかし貴殿の命令も重い。嫡子覚左衛門重直を我に代って、利長公の旗の下に属させたという。その後次男および孫も加賀の前田家の家臣となった。(石黒氏の歴史の研究・177ページ)」
 加賀藩二代藩主、利長の誘いも不自然な印象を感じます。(加賀藩諸士系譜に「神君御馴染之者故尾州江」とあるので、藩として石黒房勝の事情は認知しています)
 加賀藩は、藩の成立時に大規模な家臣団を新たに召し抱える必要があり、越中の旧領主層に位置する房勝および石黒一族を優遇する姿勢であったと推定できます。このことによって、重成の籍が変わることはなかったにしても、代理として家族が、移籍するという成果があったと言えるでしょう。

 領知方に記された白瀬村は、現在の石川県羽咋市(旧名:加賀羽喰村)の一部で、能登半島の最狭部に当たり、富山県(越中)と境を接する位置にあります。

 実際にこの地を訪れ、半島最狭部として富山湾に隣接し氷見を経由して小矢部川河口まで間近で、石黒家の旧領木舟に足を延ばすことが容易な地であると実感できました。

 木舟石黒氏の一族に、加賀藩に召し抱えられて、加賀藩士となった石黒一族がいました。白瀬訪問時に、加賀藩に残った石黒家一族の屋敷を藩公式地図「寛文金沢図」等で調べ、長町武家屋敷などを探索しました。

加賀石黒家本家筋の采女屋敷は惣構内に位置し、現在は大規模商業施設になっていました。

 戊辰戦争で、城下が灰になった会津若松市と、太平洋戦争の空襲で市街の九割以上が被害を受けた富山市を知るだけに、市内中心部に御城、惣構、武家屋敷が残る金沢市を訪問したことは、歴史の空気を感じる貴重な印象深い経験になりました。かつての市街図を、現在の航空写真と合せて活用できる技術に高めた市民の姿勢にも感銘を受けました。

 善九郎房勝=善九郎重成は、戦国時代末に織田信長の一族謀殺と天正大地震から逃れ、家康による天下統一期を経て、尾張藩士になるまで激動の時代を生き抜きました。富山県高岡市ー石川県羽咋市白瀬ー愛知県小牧市・春日井市・名古屋市を訪問して、房勝=重成の事蹟を訪ねることで「石黒八右衛門家史料館」の重要な基礎を作ることができると思います。