
時代と一族の概要 文政6年(1823)に発刊された 会津藩家世実紀以後、幕末戊辰戦争敗北(1868年)までの45年間を概観します。
天保の大飢饉から天保の改革、黒船来航、日米和親条約、”尊王攘夷”が暴威を振るう激動の中、藩主容保の京都守護職は、戊辰戦争という形で、会津藩を激動の渦に放り込みます。
七代 八右衛門洪範


七代
八右衛門洪範(ひろのり) 初千代吉
寛政十二卯年八月廿八日誕生
実 山本永之助某嫡男
妻 小沢藤四郎重女文化元子年六月十六日生
一 文化十二寅年九月鳥追狩之節為親
陣代罷出候
但此後壱度陳代ニ而罷出両度ニ獲拝領仕候事
一 同年十一月当鳥追狩之節列伍足並宜敷相揃
隊々致聯属運用無滞段兼而合隊稽古出精候義
被 思召之旨相組一同御称美被成下候
但此後為陣代壱度罷出御称美被成下候事
一 同年十二月学校江六ケ年無不参出席致候
段奇特ニ被思召之旨被仰出候事
一 同十三子年二月学校江八ヶ年無不参致出精
候ニ付 為御褒美銀子壱枚被下置候事
八代 八右衛門範親


八右衛門範親(のりちか)
文政七申年誕生
妻まさ 文政七申年誕生
明治三十三子年病死。享年七十六歳
法名 石秀院真譽妙縁善大姉
一、慶応四年戊辰戦争当時45歳、参戦。
一、明治三年、会津処分により、斗南藩に移転したと南部移転人別帳で確認できる。
一、明治三七年五月三日病死。享年八〇歳。
法名 石照院真譽法順善居士
廣記(ひろき) 嘉永三戌年誕生
一、慶応四年(1868)戊辰戦争に参戦。長命寺の戦いで戦死。 享年十九歳。
法名 忠道院義英満善居士

会津図書館所蔵の「幕末町割り図」外堀の外側で湯川との間に「石黒」文字が確認できる。

上の絵図を「会津若松郭内外絵図」と「GoogleMaps」に対応させました。外堀は戊辰戦争後、埋められますが、湯川の曲がり方で、青●が特定できました。家族による大事件後に会津若松に戻って、蟄居を許された住まいがここでした。実際に両地を訪問し、お城本丸と内堀に隣接する赤●と較べて、歴史の流れと家の浮き沈みが実感できました。


左:戊辰戦争の激戦地・長命寺。土壁に当時の鉄砲弾跡が残ります。戊辰戦争で西軍が会津に侵入した八月二九日、会津軍は城内から千余名の決死隊を募り、一隊は長命寺に拠る西軍を攻めました。
右:会津藩士名鑑に記された石黒広記の戦没地は、その時、柳橋に進み、塁を奪い取った湯川西堀端でした。戦後、堀は埋められ、今は宅地化されて西堀の面影は見られません。
七代洪範の事蹟に「学校江六ケ年無不参出席致候 学校江八ヶ年無不参致出精候ニ付 為御褒美銀子壱枚」とあります。「計十四年休まずに出席・出精」は「御褒美」をいただくほどの特筆すべき努力でした。家を揺るがした大事件の後、六代行蔵良言に続いて、七代八右衛門洪範も家の名誉回復に努めたことが読み取れます。しかし、幕末に向かう激動の中、石黒家の暮らしが大きく改善することは困難でした。
八代範親とその子・廣記が戊辰戦争に参戦。総力の籠城戦で家族も藩のために戦いました。
