初代八右衛門範良は、尾張藩士・重玄の三男として尾張に生まれ、新規御知行の扱いで、駿河大納言徳川忠長(徳川家康の孫)の駿河藩に31歳で御書院番として使えます。忠長が自害して駿河藩が廃された際、40歳で浪人となりますが、島原藩主高力摂津の守忠房の推挙により、忠長公の異母弟である保科正之公に44歳の時に江戸表で仕官することができました。
御国替えによって、保科正之公が会津に移り、会津藩が成立した際に50歳で会津若松に新たに屋敷を拝領します。この屋敷の位置は下の地図の通りです。57歳で「若君様御付き」となり、江戸で暮らします。77歳までの生涯は「大河ドラマ」の渦中を生きたような起伏に富んでいました。



石黒筑前守某嫡男
石黒八右衛門範良 初行蔵又斎意
文禄三午年七月十日誕生
母 氏不詳
妻 池田三左衛門様浪人
永井平之丞某 女
延宝四辰年十一月廿四日病死
法名智光院明恵尼葬所寿栄山浄光寺
筑前守某者越中之国之内一所之地
を領し其子八右衛門範良
初メ駿河大納言様ニ仕ひ奉り禄弐百石給り
御書院番相勤大納言様御生害之後
駿河耳浪人罷在候処
高力摂津守様御口入を以於江戸御当家江被
召出御奉公仕候
一 寛永十四丑年三月於江戸表御知
行弐百石被下置被 召出候事
一 同年五月羽州最上江罷下候事
一 同十五寅年正月三宅孫兵衛組江
入御城御番相勤候事
一 同十七辰年八月江戸為勤番罷登候事
一 同 二十未年四月
於最上御加増百石被下置候事
一 同年八月会津江御所替之節若松
御曲輪之屋敷改被 仰付候事
一 同年十一月並之御加増五十石被下置候事
一 同年月不詳 郡奉行被 仰付候
但右勤中御郡中免相其外御用ニ付
江戸表江度々罷登候事
一 慶安三寅年三月江戸江被為召
若君様 御附被 仰付御加増弐百石
被下置都合五百五拾石二被成下候事
一 承応三午年正月願之通御役御免
被成寄合組被 仰付候事
一 寛文五巳年四月 願之通悴仁右衛門
御番代被仰付候事
一 同十一亥年四月十四日
七拾七歳ニ而病死
法名随信院釈一慶 葬所 寿栄山浄光寺
1.藩が会津に御所替の際に範良が拝領した若松御曲輪之屋敷の位置
寛永二十年(1643)八月、藩が羽州最上から御国替となり、会津藩が成立した際に、八右衛門範良が拝領した屋敷の位置は、地図の通りです。

令和7年(2025)4月に会津若松を旅行して、鶴ヶ城の内堀周辺を散策するうちに、「手掛かりがあるかもしれない」と思いいたりました。系譜「一」の九番目に「慶安三寅年(1650)三月江戸江被為召若君様御附被仰付御加増弐百被下置都合五百五拾石二被成下候事」とあったことがヒントになりました。範良が「江戸へ常詰」になったため、若松の屋敷は空き家状態になりました。その「屋敷跡」を他家に譲ったことが「会津藩家世実紀」(巻之十)に記載されていたことを思い出したのです。昼食休憩の際、持参したノートPCで家世実紀を確かめると「八右衛門屋敷、本二ノ丁南頼三日町通西角ニ有之候、此節八右衛門虎菊様御附被仰付、江戸へ常詰ニ罷登候」と他家に譲った屋敷住所が記されていました。
会津図書館で、「東西に走る本二ノ丁通の南寄りで、南北に走る三日町通の西角」を「会津若松郭内外絵図:上」「幕末会津若松城下地図:下」と対応させると、緑実線の区画を範囲として指していることがわかりました。
東西に走る「本一之丁」から北に「本二之丁」「本三之丁」と通りが並び、外堀の内側には、東から南北に走る「一日町通」「三日町通」「六日町通」「甲賀町通」が並びます。
古地図上に文字通りに本二ノ丁通の南寄りで、南北に走る三日町通の西角を図上に示す(上図)と、緑枠黄色地が「八右衛門屋敷、本二ノ丁南頼三日町通西角ニ有之候」にあたります。
注意すべきは、この区画の図上には「侍屋敷-侍屋敷」とだけ記されながら、実際には数軒の屋敷があったことです。参考として「幕末会津若松城下地図」に記されたこの区画の屋敷割を掲載します。七軒、石高では百五十石から千八百石、合計五千三百石の屋敷が並んでいます。


一次史料「会津藩家世実紀」と藩公式古地図から屋敷位置を特定
参考にした「陸奥国会津城絵図」は幕府に提出され、幕府の紅葉山文庫に納められていたと伝えられていますが、複数の写本が残り、活用されています。近年では、平成十八年(2006)に「幕末会津若松城下地図」が、市立会津図書館の事業として作られました。図書館に多数残る幕末の屋敷配置図を会津歴史考房の野口信一氏が考証し、小島まゆみ氏が作図を担当した地図です。
その日午前に、会津図書館で近世担当司書の成田さんから、「戊辰戦争で城下が焼け野原になり、明治時代に区画整理が進んだが、保科松平会津藩の江戸時代を通して、道路の区画と屋敷割とおよその位置はほぼ変わっていない」とお聞きしましていました。
八右衛門範良は、仕官時二百石、後に加増により五百五十石となるので、中上級武士の屋敷が位置するこの区画に屋敷を拝領したことには矛盾がありません。この区画のおよそ四分の一を敷地の範囲と考えると、家世実紀の「座敷数多候得者」という状況とも合致します。
会津図書館デジタルアーカイブに登録され、現在の地図と、重ねて利用することが可能になっています。これを利用すると、幕末期の区画割とGoogleMapを対応させることが可能です。

現在会津若松税務署が立地する「会津若松市城前1番」が拝領屋敷跡とわかり、帰路のタクシー内からながら、現在地を確認することができました。
拝領した屋敷がお城から極めて近い位置にあったことに驚き、範良が重用されていたことを実感して、感銘を新たにしました。
一次史料(会津藩諸士系譜・会津藩家世実紀・陸奥国会津城絵図・写本)を精査し、現地を実地調査することで、400年前の歴史事実が明らかになってきました。この調査・研究の経験が、「石黒八右衛門家史料館」の基本姿勢になっています。
